詞と詩は未だに混同する言葉

 「天海春香はリボンが可愛い」と書くと単なる褒め言葉。
 「君はリボンが可愛い」と書くとちょっと詩的になる。
 「天海春香はそれが可愛い」と書くとちょっと不自由になる。
 どの辺りが「普通の文章」と「詩」の境界線なのか。大昔に国語の授業でやったようなやらなかったような気がするんだけど、思い出せないので適当に書いてみる。
 二行目の文章の場合、人称代名詞を用いることによって詩的になったわけだけど、しかし三行目だと詩的とは思えない。むしろ「だが、それがいい」に近い。
 詩にはある種の普遍性があるというか、限定しない方が良い部分がある。でもリボンは限定していないといまいち決まらない。好きな人への想いを書くにおいて、敢えて好きな人の名前を書かないことで奥ゆかしさを表現し、詩的になるのだろう。そして、その好きな人が何を持つことによって魅力を発揮しているか、それははっきり表さなければならないのだろう。
 ただ、もし私がリボンのみに萌えを感じる人間だったら、「天海春香はそれが可愛い」でも通じるのだろうか。リボンの魅力が天海春香によって美しく発揮されているかも含めて、ちょっと自信が無い。
 語順をいじるべきだろうか?「それがあるから、天海春香は可愛い」とか。しかしそれじゃあ結局天海春香を褒めてることになる気がするし。
 男性や女性への萌えもあるし、どういうコスチュームとかシチュエーションに萌えを感じるかというのも、まあそれなりにあるつもりだけど、「それのみ」という萌えは、私には無い。
 リボンが好きなのだとしたら、リボンを擬人化して書くべきだろうか?つまり、リボンを「君」と呼んでどういうところに可愛さを感じるか書くことになる。ただそうすると天海春香がどういう扱いを受けるのかがわからない。入れ替わりに「擬物化」されるのか、それとも人のまま「天海春香といつも一緒にいる君は可愛い」みたいな形にするのか。……これはちょっとありな気がする。
 じゃあコスチュームやアクセサリーの場合はそれで良いとしても、シチュエーションは擬人化できるんだろうか。天海春香だから、たとえば「転ぶ」を擬人化して詩を書けるのだろうか?「転んだ姿」ではなく、動作として書かなければならない。そこに萌えを感じているのだから。「天海春香さんが転んだ、その姿に僕は心を奪われた」だとしたら、それは単なるドジッ子か、それとも転んだ拍子に見えた何かに対する萌えになってしまうし。いや、その「何か」を具体的なものでなく、抽象的なものなんだと万人に知らしめることができれば、それは「転ぶ」に対する萌えを表現することに繋がるかもしれない。


 天海春香が転ぶと、空気が動く。体が翻弄される。はじける髪、揺れるリボン、瞬間呆然としつつも、すぐに自らに降りかかるであろう運命を感じる、その感情の奔流。転ぶまいと伸ばす腕。虚しく空を切る足。揺れる胸。迫る床。音。痛み。仲間の声。……適当に書き連ねてみたけど、これはこれで詩的かもしれない。
 もうなんだかわからなくなってきた。詩を書く人はみんな頭が良いってことで。