鈴木先生

 今更ながら、「鈴木先生」を読みました。
 中学教師と生徒の生のぶつかり合いを描いているだけの漫画です。それは「リアル」かもしれませんが、ここまで怖い話になるものなんだろうかとも思いました。
 確かにこの漫画における人間性というのは、かなり深く作られています。教師は「聖職者」と言われたりもしますが、やはり人間なわけで、悩みもすれば人間関係の好き嫌いもあります。生徒も当然様々な考え方を持っていて、そんな人達が共同生活していれば亀裂が生まれない方がおかしいでしょう。
 しかし、私自身の中学時代等を考えると、ここまで複雑な世界があっただろうかとも思うのです。
 中学生が多感な年頃だというのは分かります。子供は何も考えていないように見えても、実は深いところをよく見ているという話も、理解はできます。ですが、この「鈴木先生」に出てくる生徒達(及び教師達)は皆、頭が良すぎます。自分に明確な主張があり、それを言葉で表現でき、更には何気ない仕草から他人がそれを想像できたりと、これでもかというほど「頭が良い」のです。
 私が教師なら、生徒達の態度からどんな問題が起きているかは推測できても、そこにどんな感情がこもっているかは読み取れないと思います。あるいは、生徒側がそこまで「思わせぶりな態度」を取れずにあっさりと表面化したり、逆に内面に落ちていってやがて爆発したりと、上手く噛み合わないと思います。


 これは思うに、「鈴木先生」の登場人物は皆、生々しいのです。表面的にはごく普通の中学校ですが、そこに描かれているのは、丸裸になった人間達の話です。そこでは自分の悩みを「もやもやしたもの」としか認識できない中学生でも、理性的な口調で、時には激しく、時には饒舌に語る事ができます。それは教師も同様で、生徒達の「語らない悩み」を敏感に感じ取り、「単なる気のせい」で収めたりはしないのです。
 はじめ絵柄を見た時は「武富先生は漫画を描くには向いていないんじゃないか」と思いましたが、「生々しさ」を認識した時にそれは違う事が分かりました。この生々しさを表現するには、これぐらいの絵柄でなくてはいけないのです。線を重ねて重ねて重ねて重ねまくって、一歩間違えれば滑稽に見えるまでに汗や「照れ」を描きこむ事で、中学校の中に渦巻く精神世界を表現しているのです。恐らく、題材を選んでストーリーを構築する過程で、自然とそうなったのでしょう。それ以前の作品を知りませんが。
 そう考えると、この漫画が以前にも増してもっとグロテスクに見えてきました。登場人物達の感情の奔流に当てられ、線ではなく本が歪んで見えます。


 それでもやはり思うのは、酢豚にあそこまで本気になれる生徒はいなかったなあという事です。私の子供時代は単純でした。そのまま今まで生きているのですから、私は一生教師のような「人にものを教える」人間にはなれそうにありません。