今週のケンイチを観ていて思った事。

 怖そうな人が、実は野良猫に餌をやったりしている……、そんなシチュエーションは古来から「意外な一面」を描く際に腐るほど使われてきました。ですが、私にしてみれば本当に腐っているので、できればもう見たくないです。(なんだかものすごい表現になってしまいましたが、私個人が飽きてるだけです。それに、今週のケンイチの本筋とはあまり関係ありません)
 私が今まで見た中で一番面白いと思ったのは、やはり仮面ライダー龍騎でしょうか。脱獄犯の浅倉威がカップ焼きそばを食べているシーンで、逃走を手助けした男に「お前も食うか?」と薦めるのです(二人に面識はありません)。それまでに十分浅倉の悪党ぶりは描かれていたので、逃走を助けたとはいえ素性の知れない人間を信用するのか……、というある種緊迫したシーンだったのですが、どこからお湯とカップ焼きそばを調達したのか、やたらとおいしそうにモリモリ食べて、更にもう一つ取り出して「お前も食うか?」ですよ。
 このシーンで、私は浅倉が大好きになりました。凶悪犯でも人間らしさ……というより天然なところがあるんですよ。他にも浅倉はかつて自分を弁護した弁護士の家に押し入って餃子を食って逃げたり(不在だった)、トカゲの丸焼きを貪ったりと、犯罪者故にワイルドな、しかし妙にグルメな食生活を見せていまして、こういう描写の方が絶対「意外な一面」だよなあと当時の私は思ったものです。
 野良猫といえば、一度だけ浅倉が何の関係も無い少女を助けていた話がありましたが、あれは浅倉的「野良猫を助ける意外な一面エピソード」だったのでしょうか。あの話は結局深く語られなかったので、単に敵(ライダーにおける敵)をおびき寄せる為に助けていたのか、それとも何らかの過去が絡んでいたのか、よく分かりませんでした。あるいは、投げっ放しの話を作る事によって想像の余地を残すという手法だったのかもしれません。
 なお、投げっ放しなようで、実は投げていないと思った話では、ジョジョの奇妙な冒険における第二部のラスボス、カーズのエピソードです。暴走運転で犬を気づかず轢き殺しそうになった男二人を、車ごと容赦無く斬っています。その後も崖から転落した時に、雪の中に咲く花を潰しそうになった時、とんでもない跳躍を駆使して花を避けていました。他にも、仲間に対して心配する描写や死を無駄にしないと決意するシーンなどもあります。
 じゃあ良い人なのか、と言いたいところですが、実際はそうではありません。これらのシーンは非常に目立たない形で描かれており、ほとんどは主人公達の敵役として、しかも頭脳戦に相応しいド外道として描かれています。特に仲間がやられて一人になった時、それでも一対一の決闘を正々堂々と行うと見せかけて、実は戦っていたのは影武者で、騙し討ちをして「くだらんなあ〜一対一の決闘なんてなあ〜〜っ!」と思いっきり悪役顔で宣言するシーンは圧巻の一言です。
 そうなると、このカーズという悪党はどういうキャラクターだったのかと思いますが、これは恐らくその出自が絡んでいます。カーズはいわゆる「吸血鬼」の親玉的存在で、光を浴びない限りはほぼ不老不死の肉体を持っています。年齢は不詳ですが、二千年周期で現れるというぐらいなので、一万年単位で生きているでしょう。
 そして、カーズの目的は「太陽の光を克服して、生物の頂点に立つ事」です。特別人間を支配しようとは考えていません。というより、人間も犬も花も、カーズにとっては全て「自分より下の生き物」であり、既に支配していると言えます。カーズは太陽の下にこそ出れませんが、一万年も生きていれば自分こそが最強と考えるのは自然の事でしょう。
 言い換えれば、カーズは「命に対して平等の価値観」を持っているのでしょう。ある意味では「神」とも言えます(実際、太陽の光を克服したカーズを、主人公達は神と呼びました)。だからこそ、犬を轢く事すら気づかない人間どもは「命を冒涜した」として殺しますし、雪の中で咲いている花を勝手に潰したりはしないのです。
 そして目的を達成するならば、どんな悪党にもなります。騙し討ちも人質も何のそのです。それはカーズにとって当然の事なのでしょう。自分以外は全て「劣った生き物」であり、その扱いは平等なのです。
 主人公から見れば悪党にしか見えないのですが、全体を通して見ると「悪党ではなかった」というのが、今の私のカーズのキャラクターです。最初に読んだ時はド外道にしか見えず、猫を助けるシーンが浮いて見えたので、こうやって考え直してみると「意外」だと思いました。
 なお、「悪党でもないのに何故争うのか」と言えば、これは人間と吸血鬼という種族間の争いという風にも考える事ができます。お互いの主張や目的が噛み合わないのは、ある意味当然なのです。


 なんだか風邪気味なのに、そういう時に限ってこういう文章を書いちゃうんですよね。