グレンラガン最終回を迎え、ちょっとだけ考えた事

 奈須きのこ先生がこのアニメについて「突破感」という言葉を使っておりました。確かに「天元突破グレンラガン」の名が示す通り、ひたすらに王道をどこまでも突き抜けて、決して緩まない圧縮されたストーリーでした。まあこの辺りについては、奈須きのこ先生以外にも他のいろいろな皆さんが批評していらっしゃるでしょうから、敢えて触れません。
 だがちょっと待ってほしい。グレンラガンこそが素晴らしいアニメだと考えるのは、あまりにも早計ではないだろうか。少なくとも私は、この「突破感」を持ったアニメを身近に知っている。そう、もえたんである。
 グレンラガンは一話にして地上に出て、八話で早すぎるカミナの死を迎え、そして十五話で物語が完結したかに見せかけ、それは序章に過ぎなかったという壮大で凝縮された物語だ。しかし、それはもえたんも同じである。魔法王国の危機を知ったのが九話のラストであったが、十話では突入から解放までを一息に描いている。普通なら魔法が使えなくなる事に葛藤するべきなのだが、彼女達は決して迷わない。自分達の信じた道を進み、そして犠牲を払いつつも生き残る。これは、多くの困難を突破してきたシモン達大グレン団と全く同じなのである。
 こうして比べてみると、もえたんグレンラガンと同様、非常に速い展開で決して視聴者を飽きさせない、どんどん引きこんでしまう手法を幾つも持っていた。グレンラガンでの「燃え」はそのままもえたんでの「萌え」に繋がり、そこに価値を見出さない私のような人間でも構成の見事さには感嘆する他無い。
 グレンラガンでは第一話にしてラガンを発見し、シモン達が地上に出た。これはまず「物語の舞台に立った」という事を示す。ラガンは最後までシモンと共にあり、地下から地上という流れはやがて宇宙へと繋がる暗喩でもある。一方、もえたんは第一話でいんくが魔法に出会うという、これもまた物語の始まりを示す話を描いている。そこには明らかなギャグ要員であるダンディの存在や、恋のライバルというよりは単なる馬鹿キャラである黒威すみなどのキャラクターも描かれており、彼ら彼女らが暴走していく事で物語が進むのだという共通認識を持つ事ができる。勿論両作品とも作画、演出には力を入れており、燃え(萌え)に対して抜かりは無い。
 作画と言えば、グレンラガンでは四話が他とは一線を画する作画であった。しかし、制作側がそこで問題発言をした為に話題となり、本来アニメとは関係の無い部分で事件となってしまった。また、六話はあまりにも描写に力を入れすぎた為、急遽総集編のような形で描写を抑えた内容になり、視聴者のテンポを崩してしまった。これは、もえたんが当初三話として予定していた話が、制作進行の遅れにより六話に延期、しかしそれでも間に合わず総集編を入れたという事件に通じる、というのは考えすぎであろうか。
 グレンラガン八話では大事件が起こる。メインキャラとして、主人公シモンの兄貴分として皆が期待を寄せていた男、カミナの死である。主人公にとって兄貴分はいつか越えるべき存在であるのは視聴者も承知していたが、そのあまりにも早すぎる死に多くの視聴者が涙した。これはもえたん四話における「親父」と同じポジションである。魔法が通じない魔法タコには、物理的破壊をもたらす魔法を使うしかない、親父がそこで出した結論は「自爆」であった。そして、地球の平和を守る役目をあーくんに託し、逝ったのである。その突然すぎる登場と死に、皆は唖然とする他無かった。そしてその後も親父は幾度と無くあーくんの前に姿を現し、道を示しては消えていくのだ。カミナがその死後もシモン達を勇気付けたように。
 カミナを失ったシモンは、自らの道に迷う。それは決して恥ではない。シモンにとってカミナの存在はそれほどまでに大きかったのだ。そして多くの困難を経て過去を克服し、やがては大グレン団を率いて地球を解放する、これが第二部のあらすじだ。そこではニアという、物語の根底に関わる少女との運命の出会いもあった。これはもえたんで言うところの五話、七話の展開と寸分違わず一致している。過去にタイムスリップするいんく、そしてあーくんにとって因縁浅からぬ少女、ありすとの遭遇と、二人の葛藤である。この二話分の話を経て、二人は大きく成長する事になる。すみはさながらヨーコの役割ではないだろうか。時に場を盛り上げ、時に話を引っ張る魅力的な女性キャラなのだ。
 第三部からは世界の根底に関わるストーリーが展開するわけだが、その間に一編の総集編が入っていた。これは今まで休む事無く突き進んでいたストーリーをおさらいするには丁度良いものであったし、これから始まる新たな物語の前兆も感じられる、ただの総集編とは一味違うものだった。何より、総集編というと「制作が間に合っていないから」等と不名誉な噂を立てられる事が多いが、グレンラガンに限っては「今まで頑張っていたのだから、一回ぐらいは良い」という共通認識があった。視聴者が期待していて、制作側を理解した証なのだ。だから総集編を放映しても許された。
 一方のもえたんは、実は総集編に当たるエピソードは無い。しかし、その代わりとして八話「トラブル」が存在している。今まで休む事無く壮絶なストーリーを歩んでいたもえたんは、その八話で「無くても構わない」エピソードを挿入したのだ。しかもその内容は非常に完成度の高いものであり、また視聴者の間で(根も葉も無い)噂になっていた「愛知版」の存在を許容し、再現してみせた。これもまた、制作側と視聴者側が通じ合った瞬間であった。そして九話以降の物語は大きく核心に迫るものとなり、その最後の「溜め」の話でもあった。その中休みとも言えるエピソードに尋常でない力量を注いだのだから、私はグレンラガンよりもえたんに軍配が上がってもなんら驚かない。
 グレンラガン第三部では、成長した登場人物達を見る事ができる。ある者は過去の面影を残し、ある者は変わってしまった。そして同時に「世界の危機」がやってくる。年月を経て生じた価値観のずれを直し、再び集結して目の前のものに立ち向かう、それが主な流れである。もえたんは九話において魔法王国の危機という、アンチスパイラルに優るとも劣らない大事件が発生する。すれ違っていたいんくとすみの友情、そしてグレンラガンで言うところのニアに当たる、ありすの正体とその救出、それが十話までに、決して手を抜かず、しかし省くべきところは省いて描いている。普通ならもう一話分は余裕を持って展開するであろう魔法王国の話を、たった二話で解決してしまったのだ。もしいんく達がグレンラガンの世界に紛れこんだとしても、月の侵攻を阻止する大グレン団に遅れを取る事は無いだろう。
 第四部は当然物語の集結である。そしてタイトルにもあるように「天元突破」するのだ。多くの困難を乗り越えて、再び過去と会合し、シモンはカミナと、本当の意味で肩を並べる事ができた。シモンが当初から抱えていたテーマである、成長と克服を達成したのだ。他の皆もそれぞれの結論を出し、一つの場所へ集結していく。そこに最早言葉はいらない。そして大グレン団は最後の敵であるアンチスパイラルを征し、それぞれの世界に帰っていった。
 もえたんは十一話と十二話において、原作通りでもあり、最初からの目標であった大学へと立ち向かう事になる。魔法が使えなくなっても手塚ナオの元に行き、勉強を教えようと健気に生きるいんくは、螺旋力を持たずともシモン達をサポートしたヴィラルと同じ境遇を抱えている。形式上恋のライバルであったすみも新たな相手を見つけ、いんく達と共に生きる事ができるようになった。そして皆が一丸となって大学進学を目指し、見事達成するのだ。ラストシーンにおいて、勇気を持ってナオと手を繋ぐ事ができたいんくは、正にシモンとカミナの関係そのものであり、私は涙を禁じえずにはいられなかった。
 グレンラガンのエピローグは、地球でそれぞれの居場所に帰った仲間達の姿である。シモンはどこまで行っても「穴掘りシモン」であり、見知らぬ子供に穴掘りのコツを教える、ささやかだが美しい結末を迎えていた。また、一方で宇宙に進出した者達もいる。螺旋族がいるのは地球だけではないのだ。その意味では、物語はどこまでも広く、大きく続いていくのである。天元を突破しても、そこに終着点は無い。
 もえたんは十二話のBパートを使って、各登場人物のその後を描いている。かつての生活とほんの少し変わったが、本質的には変わらない、理想的な終着点である。「親父」もまたカミナと同様、静かに世界を見守っていた。そして、澪とダンディは新たな魔法少女となり、次のステージへと進んでいた。魔法少女の戦いも、終わりは無いのである。どこまでも進み続けるだけだ。あーくんもいんくも、それぞれの居場所を見つけた。中には二人の噂をする者もいるかもしれない。しかし、二人もまた、成長こそすれど、どこまでも変わらないのだ。


 このように、もえたんは極めて王道のストーリーを持ちながら、決して妥協せずに高みへと展開させている。ストーリーとは直接関係の無い部分にも力を注ぎ込む事により、長し見をしているだけの視聴者をも引きこむ事ができる。
 天元突破グレンラガンが王道をどこまでも突き進んだ事を評価する人は多いが、それは決して珍しいものではない。一見全く方向性の違う作品であるもえたんも、本質的には同じものを秘めているのだ。
 グレンラガンが最終回を迎えた今こそ、もえたんを再び評価するべきではないだろうか。私はそう願ってやまない。