キレる大人達

 ちょっと古い表現かもしれませんが。


 結局、キレるのは子供も大人も一緒ですよね。何が言いたいかって言いますと、少年少女による衝動的な犯罪がその時期に大して起こってなかったから話題になったわけで、その時の上手いキャッチコピーがそれぐらいしか思いつかなかったという、たぶんその程度の話だと思います。
 社会は大人達によって作られています。子供はそんな社会の中で養われ、その恩返しとして大人になった時に社会を作り、次の世代の子供達を養うわけです。社会の仕組みをものすごく大雑把に言えばこんな感じでしょう。誰に奉仕するとかしないとか、解釈は色々あると思いますが、子供と大人の関係論の話としては間違っていないと思います。
 ところが、子供は自分が養われている事に気づかない場合が多々あります。まあこれは当然です。人間は生まれつき「物を食べなければ生きていけない」とか「眠らないと力尽きる」といった情報は身に付けていても、「他人との関係があって初めて生きていられる」という情報は無いのです(たぶん……)。しかし子供はいつまでも子供ではありませんから、どこかで大人達に対し「自分は何もしていないけど、大人達は自分を養ってくれている」と気づくわけです。
 養われている事に気づいた場合、子供は何をするでしょうか。プレゼントか何かでお礼をするかもしれませんし、精一杯勉強をしてお返しとするかもしれません。一言で言うなら、「感謝」です。「キレる子供」というキーワードが流行ったのは、大人が「子供からの感謝」を受けにくくなったからではないか、と私は思います。
 「感謝」は私の考える限り、最も大事なものです。人間はホモ・サピエンスとして存在するだけなら何も必要ありませんが、わざわざ「人間」という知性の象徴たる別名を持っているからには、それに相応しい在り方があると思うわけです。その一つが「感謝」です(他にもいろいろありますが、語り出すとキリが無いので)。
 最近の子供達は「感謝」を忘れていると思います。もしくは、知っていて「感謝」しているのに、それをどうやって表現すれば良いか分からないんじゃないかと思います。
 勿論子供が適切な感情表現を苦手としているのもあるのですが、例えば塾や習い事に時間をかけている子供の場合、その分「親」という「最も感謝すべき大人」と接する時間が短いわけです。自分の部屋で漫画ばかり読んでいる子供だってそうです。塾や漫画ならまだ学ぶところがありますが、インターネットの世界辺りまで来ると玉石混合という奴で、「感謝」を忘れるのも無理ならぬ事でしょう。


 私が子供の頃、新年の挨拶で親戚が来た時お年玉をもらったのですが、その時に親から「『ありがとう』と言いなさい」と教わりました。礼を言うのは当然の事ですし、友達に比べてお小遣いの少なかった私はとても嬉しかったのを覚えています。しかし、教えてもらってすぐの私はその言葉の本質が分からず、機械的に「ものをもらったら礼を言う」と覚えました。
 それが「感謝」という言葉であり、心から「ありがとう」と言えるようになったのは、高校生の頃だったと思います。そして、「感謝」が瞬間的なものばかりではなく、「今まで育ててくれてありがとう」といった「積み重なりに感謝」できるようになったのは、更に後の事でした。それを認識した時、私は自らの傍若無人ぶりに顔から火が出たものです。ああ、今思い出しても情けない青春の日々、というやつです。
 今の子供達は、どこまで「感謝」を知っているのでしょうか。すぐに「ありがとう」と言える子供は偉いと思いますが、それが本当の意味での「ありがとう」なのか、私は考えずにはいられません。子供の頃はそれで十分なのですが、大人になるにつれて「正しい感謝」を表現できるようになるんだろうかと、何気ないやり取りが気になってしまうのです。


 「感謝」を忘れてしまった人間はどうなるでしょうか。普通に生きる事はできますが、やがて人間関係で破綻するでしょう。「感謝」は目に見えないものですが、人が人を評価する際には見た目だけではない、無意識のレベルでの気配り等が大きく関わってきます。
 人間関係は損得のやり取りだけでも成立するのですが、そこに「感謝」を入れるとよりスムーズになります。「この前のお礼に〜」という気配りを忘れない人間は、人との関わり合いを大切にしていると思われるわけです。ふとした時に失敗しても、義理ではなく「お前は良い奴だから〜」と助けられたりもするでしょう。そうやってお返しするのも「感謝」であり、「感謝し合う」事でより充実した日々を過ごす事ができるのです。
 親子関係ぐらいになると、「感謝」は意識しなくても良いかもしれません。それなりに関係が良好なら、お互いに空気だけで助け合いをするものですしね。しかし、独立するなどして親元から離れている場合は、血縁の絆というものは「意外と忘れてしまう」ものなので、たまに帰省したり手紙やメールのやり取りをする等、定期的な会話だけでもしておいた方が良いと思います。


 さて、何の話だったでしょうか。そう、「キレる」話です。もうすっかり話がずれているわけですが、無理矢理につなげてしまうなら、「キレられる対象」は「感謝」されていない証でしょう。
 しかし子供なら「感謝していても、自分自身がそれに気づいていない」という事はままある事なので、それなりに広い心で接した方が良いと思います。手段に問題があっても、そこに主張があるのは事実なので、「キレるような子供の話は聞かない」なんて言わずに自分を改めるべきです。言うならば、「キレられる事に感謝」するのです。勿論、キレると大抵暴力に訴えるので、そこは咎めるわけですが。大人がキレるのは……、キレるような大人は大人じゃありません。大人の面をした子供です。もしくは、キレさせた人が子供までレベルを落とさせたかです(そういう人は子供以下です)。
 しかし一番良いのは、多少の衝突はしても、キレられない関係でしょう。日常的にそこそこ接しておくと、キレるのを予防できたり、その兆候が掴めたりもします。子供はなんだかんだで隠すのが下手ですから、何気ない会話の中に本音が見えるかもしれません。ただ、あまりベタベタすると、それもまたキレる原因になるので、他人の観察と同時に自己分析も忘れずに。


 なお、個人的に一番恐ろしいと思うのは、「キレてすらくれない」関係です。「感謝」するのを+の感情とするなら、その反対である−は「キレる」等になる、と思いがちですが、−は−をかける事で+になるのを忘れてはなりません。良くも悪くも「感情表現」には変わりないのですから、全て汲み取ってやるべきです。
 「キレてすらくれない」……これは0です。0は何をかけても0です。「無関心」ほど恐ろしいものはありません。相談もしてくれないし恨み言も言わないので、修復不可能とすら言えるでしょう。修復しようと思うなら、他の+の関係を持っている人から知恵を借りる等する必要があります。


 「感謝」を覚えれば子供を卒業、キレなくなったら大人の証……いい加減な話ですが、私はそう考えます。「感謝」は二十歳前に学ぶ事ができましたが、私がキレなくなったのはいつの頃だったかなあと思うと、つい先日キレたので……。
 まだまだ大人にはなれないようです。




 日常に疲れると、こんな頭が良いようで悪い文章を書いてしまいます。普段ならこんな文章は途中で消して、もっと楽しいおバカな事を書くのですが、今回は敢えてこのまま書いてみました。疲れた状態で書いているのでちょっと文章が混乱しているのですが、玉石混合のインターネッツですからこんな病人みたいな文章を残しておくのも「おバカ」かと思い……。


 あ、あと昨日ゴキブリが部屋に出ました。寒さで弱っていたので放っておこうかと思っていたのですが、その後で扉を開けたらポトリと落ちてきたので宣戦布告と判断し、思いっきりブチキレてしまいました。殺虫剤でブシュー、やっちゃった後に「悪い事しちゃったな……」と反省しました。なんだかんだで生き物ですからね。
 弱っている虫相手にキレる私は、一体どこまで大人なんでしょう。