なんだか最近アニメの話ばっかりだ

 なのはのOPが新しくなりました。黒尽くめに赤マフラーというだけで赤影を思い出す私は随分と古い人間だと思います。必死で違うイメージを出そうとして、結局破壊魔定光が精一杯だったわけですが、よく考えるとあんまり似ていません。


 一方で、絶望先生のOPも新しくなりました(というより、正式版になったんだと思います)。これは、久しぶりに鳥肌立つOPでした。
 全体を通して観ると、このOPのテーマは「糸色望先生の心理」だと思います。
 糸色望先生の生徒である女生徒達が縛られ、顔を失い、人体図のように注釈され絡み合う姿は、エロティックでもありますが、高い芸術性が感じられます。勿論本物の芸術作品には多分に劣りますが、「さよなら絶望先生」という作品内での芸術性はかなりのものだと思います。
 その中で糸色望先生は何をしているかというと、女生徒達がほとんど出てこない画面の中を座り込んだり、歩いたりしています。代わりにいるのは、「無数の仏像」です。仏像の中には生徒達が隠れていたりします。こうして見ると、仏像というのは完璧な存在でありながら、どこか不気味さも兼ね備えていますね。
 そして、先生は逃げます。逃げるカットのバックには無数の前田君がいます(笑)が、これも仏像と同じ、合掌のポーズです。そしてゆっくりとこちらに歩いて来る、「顔の無い少女」達。最終的に、久米田康治先生の生前葬の写真と共に、糸色先生は首を吊りました。それを顔の無い少女が見ています。
 最後のカットは、妊娠八ヶ月となった少女「風浦可符香」と千手観音、そして胎内で眠る糸色先生です。一見無関係にも思える「少女達」と「無数の仏像」ですが、最後のカットでそれが繋がりました。仏像とは少女達の暗喩なのではないでしょうか。


 「少女」という要素は、それだけである種の神性を持つと思います。特に教師の目から見た場合、「不気味さ」と「完全性」はより強いのではないでしょうか(糸色先生なら尚更でしょう)。冒頭でエロティックな、しかしどこか浮世離れした少女達が描かれているのも、それを強調するものに思えます。
 そして、無数の仏像=生徒達の中で糸色先生は考えています。この時の糸色先生がやけにカッコ良いのですが、それは非常に目付きが鋭いからで、何か神経過敏になっているようにも見えます。まるで、完全な存在である少女達を恐れているかのように。
 そして先生は一瞬少女達と触れ合いましたが(「素敵」で変なポーズ取ったり、まといの足をカーズのごとくウィンウィンしたり)、耐え切れなくなって逃げます。追ってきても逃げます。最終的な逃げ道である「死」に走ります。しかし、逃げようとしても逃げられないのです。とある少女の母体に、最も注意すべき人物の元に帰ってしまいました。
 これは、生徒達という「現実」から逃げようとするネガティブ教師糸色望の、それでも帰ってきてしまう、あるいは帰らされてしまうどうしようもない心理と現実を具現化しているのではないでしょうか。死に走ったすぐ次のカットでは母の胎内に帰っているという、屈折した感情は絶望先生そのものだと思います。あるいは、本人は逃げたつもりでも輪廻転生からは逃れられないのでしょうか。


 正直、絶望先生という作品は、「どうやってアニメにするのか」という事を悩まずにはいられませんでした。本編はあの通りやろうと思えば……、その覚悟があればできるのですが、それを象徴するOPってなんだろうなと思うからです。OPというのはいわば「作品のテーマ」ですから。ロボットの出ないロボットアニメはありませんし、ギャルゲーものはメインキャラの誰をフューチャーするかが重要になります。
 絶望先生はそういう意味で、元々の作品の雰囲気をかなり上手く表現していると思います。元々が時事ネタやギャグを描いているのですから、ただひたすらにネタを散りばめるだけでも、テーマとしては間違っていないでしょうが、骨子となるものがあると無いとでOP、ひいては作品の締まりが全然違います。
 まず、なんだかんだで主人公は糸色先生です。しかし、先生のキャラクターはネガティブで、他者に対する反応がある事で初めて成立するのです(受身、という奴ですね)。じゃあ誰を対立軸に持ってくるかとなるわけですが、どことなく古風な作品に合わせ、「神格を持つ少女」としたのでしょう。教師の対立軸としての女生徒でありながら、ネガティブ人間に対する「絶対的な存在」というわけです。その象徴が、「顔の無い少女」と「仏像」、その融合である胎内回帰です。
 なお、「顔の無い少女」達ですが、一部のカットでは顔が出ています。中盤の、仏像の中にいる先生と逃げる先生の間のカットです。これは恐らく、生徒と向き合った瞬間を示すシーンなのではないでしょうか。生徒の足を舐めるとか、かなり濃厚ですが、まといならありうるのではとも思います。常に付き纏ってるんですし。あるいは、糸色先生の目もおかしい事になっているので、糸色先生の中の歪んだ感情が外に出たとも考えられます。
 でもやっぱり怖くて逃げるのです。自分のとった行動に恐怖したのか、生徒と向き合うという事実そのものを恐れたのか、それは分かりません。両方かもしれません。なお、この時の逃げ方は正に鬼気迫るといった感じで、逃げる前にショック死するんじゃないかとすら思います。
 そして最後に辿り着くのが風浦可符香の存在で、これはもう顔の無い少女ではなく「神(仏)」の姿だと思います。そうでないとしても、風浦はネガティブ人間に対する究極のポジティブ人間であり、生徒としても要注意人物です。何より、物語で最初に出会った、ある意味「運命の人」でもあります。これほど大きい存在ならば、「顔」を見たくなくても見えてしまう、あるいは風浦から「見せてくる」のではないでしょうか。


 正直怖いOPです。だが、それがいい。本編も原作通りでありながら、それで十分すぎる程危ないネタばかりです。よく放送できたなあと思うぐらいです。


 ちょっとリンク。
 たまごまごごはん−「さよなら絶望先生」にみる、少女解体とオブジェ観
 たまごまごさんはこのOPについて、少女の芸術性を強く書いています。私も同じような事は考えたのですが、「血と薔薇」のような知識は無いもので、大変勉強になりました。最近この手の書籍に触れていません……。


 なんだか最近、良いネタがいっぱいあります。特に今期アニメは、絶望先生もえたんが強すぎます(共通点は「歪んだ芸術」)。私の一番好きなのはF-ZEROだというのに、これではファルコンハウスまで呼び出しがかかりそうです。