ぶれぶれぶれぶれ

 さよなら絶望先生OP「人として軸がぶれている」聴きました。大槻ケンヂさんの事はあんまり知りませんが、好きなのは間違い無いです。
 こちらは某もえたんEDとは違い、実にストレートな詞です。深夜にやる事無いからテレビを観るような、それなりにやる気の無い男(俺)が主人公となっています。なお、歌詞を見ながらでないと分からないと思います。
 まず「俺」はテレビを観ていて、そこに出ている成功者とかアスリートとか、そういう人達に対し、自分はなんて「軸がぶれている」んだろうと気づきます。そりゃ何の取り柄も無い人ならば、将来とか自信とかにちょっとした不安を感じる事もあるでしょう。そしてサビの部分で、「俺」は開き直ってぶれまくると宣言します。自分の不安、「震えてる」のを分からないように。それは他人に対してか、自分に対してか、恐らく両方ではないでしょうか。
 なお、「俺」はバイトをしているようです。つまり、社会に対して貢献するかはさておいて、全く生きる気が無いわけではなさそうです。テレビの中の人達も「興味無い」と一度は突っぱねていますし、平均的フリーターのような人間ではないでしょうか。
 でも寝れずに漫画見てたら、また別の「ぶれてない人」を見つけて……という風に段々と逃げ道を無くしていく辺りも、将来が不透明なフリーターにありがちな事ではないでしょうか。そして、「なんで俺はバイトなんかしてるんだ」とは思うけど、そこで別の事を頑張ろうとせずに、軸のぶれを大きくする、これもやけになった人間がよく取る行動です。
 二番では、「軸のぶれ」を世界に広げています。「ぶれ」は波動や振動であり、やがて世界に広がって認識される筈だという、本人以外には分からないような理屈でごねています。もうここまで来ると、どこまで本心でやってるのか分からなくなっているんじゃないでしょうか。だからこそぶれまくってやるというのも、ぶれぶれしていればそういう不安とかあやふやな問題がちょっとの間消えるのでしょう。理屈だって考えなくて済みます(わけ分からない理屈でごねながら、理屈では行動していない?)。
 そしてサビのラスト、「君」がいれば変わる……と続きます。この部分を歌っているのは、最初に「軸がぶれていない人」を褒めていた「絶望少女達」です。私に気づいて……と言う部分からも、「俺」に関わりある人間なんだと思いますし、「軸」云々を言い出したのも彼女達です。たぶん、「俺」にとっては大事な人間なんでしょうね。友達感覚で芸能人の話題をするように「あの人良いよね」とか言い合ってたのが、「俺」にとっては段々大きく響いてきて、どうせ俺なんか……!って暴走するという感じですか。
 そして、思う存分アッパーに暴れる「俺」に対し、「私に気づいて……」と言うのは、「俺」に対する負い目なのか、最初から思うところがあったのかは分かりません。ただ「手遅れ」なのではないかとも思います。「俺」は「君」に対し「変わる?」と疑問系ですし、それに応える「君」の声もどこか遠くなっています。この二人の軸もまた、どこまでもぶれています。


 これが「さよなら絶望先生」のOPであり、歌っているのが「絶望少女達」というのはなんとも上手い話です(当然作品を意識して制作したのでしょうが)。糸色先生は軸がぶれまくっていますし、生徒達は先生を結構、いやかなり慕っていますが、ある意味では両者の関係は永遠に変わらないんですよね。「俺」と「君」の微妙な関係がそこに現れているわけです。
 ぶれている事に気づいた=絶望した人間は、ダウナーかアッパーな行動に走ります。しかし糸色望先生は「ネガティブ教師」という思いっきりダウナー系なキャラクターに思わせて、実は本気で死ぬ気はあまりありません。むしろ自殺は周囲に対するポーズや自己表現と考える事もでき、つまりダウナーに見せかけたアッパーではないでしょうか。「居直っている」時のぐにゃぐにゃ逃げて首を吊るOPカットにおける糸色先生は、「必死さ」という意味では「生き生きとしている」ようにも感じられますね。
 なお、歌詞だけでは「手遅れ」にも思えますが、映像で言えばまた意味が違ってきます。「私に気づいて」というカットでは、糸色先生は風浦可符香のお腹の中なんですから、これはもう考えるなという方が無理です。「死んでも(可符香の腹の中に)戻ってきてしまう」先生に気づいてほしいんですよ。つくづく可符香は「神」の属性を持っていますね。そうなると、最初に「人の軸」の話をしたのも、糸色先生をけしかけたように思え、薄ら寒いものを感じます。……近頃流行りの「ヤンデレ」という奴かもしれません。私はこの言葉があまり好きではありませんが。


 そもそも、「軸がぶれる」という言葉は、ひどく定義が曖昧です。「道を踏み外す」のような明確さがありません。成功者達を見て、それに対する自分という「漠然とした不安」が積もってきて、それが暴走しているのです。糸色先生も「決定的な何か」によってネガティブになっているわけではなく、日常のどうでもいい事に細かい意味を見出して「絶望した!」と言っている人ですから、走り出すエネルギーだけは有り余っているんですね。
 「細かい不安」というものは何時の時代にもあるものですが、文化や思想が細分化した(と明確に認識できる)現代ではそれが病のように表れています。現代の若者が「なんとなく」無気力なのも、そういう細かい不安や漠然としたぬるま湯のような絶望に浸っているから、というのは言いすぎでしょうか。しかし、絶望先生はギャグ漫画ですが、個人個人にとっては結構笑えないネタもありますから、そういった「漠然としたもの」を抱えているのは事実だと思います。
 とりあえず9巻まで出ているコミックスを読み返せば、一つぐらい笑えないネタがあると思います。それが「どうでもいい」「なんとなく」「漠然とした」不安という奴です。糸色先生はそれが少々多すぎるんです。で、それを力いっぱいストレートに表現したのが「人として軸がぶれている」なのです。「漠然としたもの」をストレートに表現する、というのはなんとも複雑な話ですね。


 そして「軸がぶれる」事について、これは「自分は間違っている」「踊るダメ人間だ」と断言できる程の力がありません。軸が「ぶれている」程度なのです。「人として軸を失っている」わけではありませんから、居直る事だってできますし、勢い良く首を吊るのもありでしょう。あやふやだからこそ「世界中に広がる(んじゃないか)」とも確信するのです。
 以前、OPの映像は「糸色先生の歪んだ心理」を具現化したものだと書きましたが、曲もまた糸色先生の漠然とした不安を歌った、高らかに「絶望した!」と宣言する先生に相応しい曲だと思いました。


 明日はコミケの話でもしましょうかね。
 ※9月15日、なんとなく気になったので文章を少し修正しました。