夕凪の街 桜の国

 初めてカテゴリーを複数使ってみました、という挨拶と共に、仕事帰りに観てきました。ちなみに数人しかお客さんいませんでした。なんでそんなに少ないのかなあと思ったら、この映画7月公開だった……。


 もう知ってる人も多いとは思いますが、原爆が落とされた「後」の広島に関わる一家を描いた物語です。2004年に漫画版の単行本が出版され、そして今年に入って映画公開という流れです。
 前編が「夕凪の街」という原爆投下十年後の物語、そして後編が「桜の国」として現代の物語を描いています。「現代」というのは、原作では石川七波が小学生の頃を描いた第一部と、社会人になった第二部で構成されていて、映画版では多少アレンジされているからです。具体的には、第二部を2007年として、回想シーンに第一部のエピソードを入れる形で「桜の国」としています。おかげでなんだか混乱します。
 そして私は、御恥ずかしい事ながら漫画版を読んだ事が無く、映画観てからでいいやと思って買うだけ買っておいたのですが、映画を観たら「こりゃ漫画も読まなきゃダメだ」と思い、今さっき漫画を読み終わりました。結論は、「別物」です。
 でも、原作と映画の違いと共に書いていきます。


 「夕凪の街」では平野皆実という二十代の女性が主人公となっています。原爆によって父と妹を失い、以前から疎開していた弟の旭とも原爆の影響で離れ離れとなって、母と二人で原爆スラム(夕凪の街)に暮らしています。そして仕事先の同僚である打越豊と良い仲になっていくのですが、被爆した自分が幸せになってはいけないという葛藤が物語のキーとなります。
 原作では皆実に姉もいて、被爆後二ヶ月で死亡しており、その最期を看取っています。映画では姉が登場しない代わりに、被爆直後の妹と再会しており、やはり最期を看取っています(姉の役割が妹になっているわけですね)。原作では妹とは再会できずに、見つからないまま死亡届を出されていますが、映画では代わりに父が行方不明のまま……という役割になっています。なんだか混乱する上に不謹慎な話ですが、映画という事で登場人物を減らして話を分かりやすくしているわけですね。
 原作ではラストで皆実が死亡する時、姉の最期を思い出す事で自分の運命を悟るような描写に繋がりますが、映画では「原爆症」そのものがよく分からないまま漠然と「死ぬ」事だけを受け入れるという、原爆と死の理不尽さを強く描いています。原作では、最期に目が見えなくなって淡々と死んでいく等、「日常」の延長上として原爆を扱っている節があります。変に力を入れず柔らかい絵柄な事もあり、「自然に存在する原爆」の恐ろしさが見えてきます。
 映画では打越さんのキャラクターが若干強く出ていて、「原爆を知っているけど、体験していない人間」という皆実の対極に位置するのがよく分かります。それは皆実にとって辛い面でもありますが、皆実自身もある程度救われてから逝っている構成にしているのは見事だと思いました。映画ではあまりゆったりした作風は表現が難しいですからね。
 ただ、分かりにくかった部分も少々。弟の旭がどういう理由で広島に戻るのを拒んだのか、私は最初分かりませんでした。というより、最初の方の「まだ映画本編に入り込めていない時間」だったので、その描写を見逃してしまったのだと思います(広島弁ではなく疎開先の言葉になっていたのと、原爆によって故郷が変わってしまったのを見る事を恐れたかららしいです)。ラストで旭と再会するのですから、もう少し印象的であった方が良かったんじゃないかと。
 上とちょっと被りますが、原作での皆実は姉の死を見届けた時点で、自分も死ぬ事を覚悟していたのでしょう(これ自体もかなり漠然としたものですが)。一方映画ではそれがもう少し漠然となっていて、「原爆」という「悪意の塊」によって「自分は幸せになってはいけない、死ねばいい」という人間になっているという意識だけになっています。だから、ラストでの旭との再会や打越さんとの交流で「救われているかもしれない」と思えたところで死ぬのは、ドラマ性を増しているわけですね。
 ただそうなると、ゆっくりと命が消えて、次の時代(桜の国)に向かって動き始める様を「夕凪(風向きが変わる際の夕方の無風状態、瀬戸内地方特有の気候)」の暗喩で示しているのだと思いますが、映画ではそれが少し弱くなっているかとも思えます。
 どっちの話が良いというわけではないでしょうが、原作の方がより「飾りが無くて」面白いのではないかと思います。原爆を扱った作品はどれも悲劇性を帯びていますが、穏やかな作風で描かれたものは少ないでしょうから。映画館特有の「共感」は勿論重要なのですが、ガラガラだったので……。


 「桜の国」に関しては、これは映画の方が良かったと思います。元々第一部が短いというのもあり、回想シーンに入れて順次展開していくのは分かりやすく飲み込む事ができました。……というより、これは原作の第一部が雑誌掲載であるのに対して第二部が描き下ろしの単行本となっているという、構成の都合ではないかと思います。第一部は単行本の宣伝を兼ねたプロローグという感じで、まとめて読む(観る)際には若干テンポが悪く感じました。
 桜の国の主人公は石川七波、皆実の弟の旭が疎開先の石川姓になって、その子供です。家族構成は弟が一人、母は旭が広島に移住した時に出会った太田京花という人で、やはり原爆症と思われる病気で亡くなっています。
 そして祖母である皆実の母も第一部で死亡しますが、その最期では七波が誰だか分からなくなっていました。そして幼くして死んだ皆実の妹である翠の事を探し、七波をその友達と勘違いしていました。皆実の母は原爆直後から一ヶ月程失明しており、被爆の惨状を目の当たりにしていません。もしかするとそのおかげで、心のどこかでは翠の死を認識していなかったのかもしれません。
 そして、旭さんは定年退職してから、突然いなくなるなどの行動を繰り返していたので、不審に思って七波が尾行するところから始まります。実際のところ、旭さんは広島に行っていたわけですが、皆がほとんど広島と原爆について語ろうとしなかったので、心配したり怪しんだりというのも頷ける話です。
 しかし、七波も被爆者の母を持って生まれており、次第に人々の記憶から薄れていきながらも、確実に「原爆」は残っていて、七波も父の道筋を辿りながらそれを認識していくのが一つの筋になっています。そして同時に、弟と七波の友人が付き合っているのですが、弟が「被爆者の子供」という理由で相手の親から拒絶されているという物語も並行して語られています。
 元々皆実を失った祖母は、旭さんと京花さんの結婚に反対していました。「知り合いが原爆で死ぬのを見たくない、疎開先(養子先)に申し訳が立たない」という理由です。しかし結局旭さんの転勤に合わせ、旭さんと京花さんは結婚しました。これもまた、原爆の風化を示す事なのかもしれません。それでも原爆は確実に人々の心に残っていて、若者達はそれを認識して生きていくわけです。
 「桜の国」というのは、幼い頃桜と共に育った七波が、成長して街の小ささを実感するところにあります。子供の頃過ごした土地を小さく感じるのは、桜の木が大きくなったからだ、という事です。そして「国」というのは、次第に消えながらも確実に残り続ける「日本の原爆」と合わせているのだと思われます。これもやはり、映画の方がややタイトルとの関連が薄れていると思いました。


 どちらも面白い作品である事には変わりはありません。原作の方が手軽さはありますが、あまりにも「自然」すぎて原爆の恐ろしさを感じられないかもしれません。しかしこの話の本質は「原爆」ではなく、「原爆と共に生きる人々」ですから、「恐ろしさ」そのものはさして重要ではない、と思います。
 ただ気になったのは、映画(特に夕凪の街)は現存していない古い町並みが多いので、CGや別の映像との合成が使われている部分があり(恐らく)、そこにちょっと違和感を感じました。広島弁の再現も完璧かというとそうではありませんし(たぶん)、カメラワークも少々平凡な気がします。話は十分に面白くても、映画の技術面や演出では一歩劣るかなという感じです。
 しかし、私は原爆どころか核実験すら碌に知らない人間だというのに(ニュースや資料だけではね……)、それでも十分心に訴えるものがあるというのは凄いと思います。「誇る」というわけではありませんが、「日本」という国を示すには欠かせないものになっているという事でしょうね。この話の中で人々の記憶に残っていくのと同じように。