白い馬の季節

 先日観ました。
 舞台はモンゴルの大平原です。モンゴルと言うと「ずっと草原が広がってて、渋カッコいいおじさんが馬に乗って走ってる、のどかさと厳しさが混じったような独特の世界」のようなイメージを持ってる人は多いと思います。で、この映画も正にそれなのですが、舞台は現代。そのイメージは既に過去のもので、痩せていく草原や街に移住する人々、そして過去を夢見て生きる不器用な男……。そんな「終わり行く世界」の話です。
 羊を始めとする家畜のための牧草地は限られていて、一族の中でもやりくりできない程。残っている土地も格自治体が保護区域に指定して、昔からそこに住んでいた人々の場所が無くなっていきます。馬を売って服を替え、街に住んで細々と商売を始める人々。主人公のウルゲンはそれを善しとせず、土地や誇りを守ろうと奔走します。しかし、草原での生き方しか知らない彼には何もできないどころか、暴動を起こしてしまうだけです。苦しい生活のおかげで、息子は授業料を払えず学校に行けなくなり家の手伝いを、妻はヨーグルトを作って売るなどして生活を助けたりもしますが、彼にはそれさえも辛く見えてしまいます。
 幾つもの「自分の理想とはかけ離れた現実」を突きつけられ、ウルゲンは次第に考えを変えていきます。やがて全てを諦め、長年連れ添って老いた馬を手放します。しかし、失って初めて分かるのが人の常、自分と共に草原を駆けた馬と離れる事の愚かさに気づき、また売られた馬が見世物に使われているのを知って激怒します。
 馬は戻ってきましたが、彼の叔父が諭しました。草原での生き方しか知らないからといって、街に住めないわけではない。過去に生きるのは、草原の民のすることではないと。老いた馬も、唄を捧げて草原に返してやるべきだと。叔父もまた細々と草原に生き続ける一人で、現代の生き方を憂いていたのです。
 ウルゲンは草原を去りました。街で着るような服に着替え、テントを解体し、馬に別れを告げて、去っていきました。そして、街を目指すウルゲンの後ろを、馬がゆっくりと辿っていきました。


 近代化が進むと、過去はゆっくりと崩れていきます。そんな「どこにでもある風景」の一つでしょう、この映画は。新しい時代に向き合い、過去に別れを告げる日は、いつかやってくるのです。それを寂しいと思うか、嬉しいと思うかは、その時になってみなければ分かりません。この映画の中でも、ウルゲンは最後まで苦悩していましたが、新しくなった方が良いこともあるかと思うと、なんともいえない気分になりますね。
 そんな「ロマン」をひたすらに描いた映画ですが、モンゴル及び中国ならではと思える描写もいくつかあって興味深いです。言っては悪いですが、「人々がセコイ」とか。ウルゲンは中国語が話せないのですが、馬を売る相手が中国人で、取引相手の友人の通訳を介すのですが、「1200元で良い」と言うと通訳は「1500元だと言ってる」と言って交渉に入り、結局1300元で手を打つと、「今までに貰った羊の皮代も一緒に渡す」と通訳が言うのです。つまり、通訳は羊の皮を丸儲けしていることになります。他にもチンギス・ハーンの子孫を名乗る絵描きとか、非常に信憑性がアレな話もあります。


 で、そんな話を書いてふと気づきました。この映画、どこまで本当なんでしょう?モンゴルの草原が変わっているだろうとは思うのですが、どの程度のレベルでの問題なんだろうとか、よく分からない部分もあります。
 モンゴルって、結局「遠い国の話」なんだなあと思いましたよ。