考えに付き合う

 音楽を理性で考える人間は馬鹿じゃないか、と風野が言っていました。それは全世界の音楽家に対して失礼ではないかと思いましたが、彼は彼なりに思うところがある様子。
 「音楽に国境は無い」という言葉がありますが、それは音楽が本能に訴えるものだからだ、というのが風野の意見。そして、理性とはそういう音楽を自分の国の言葉に変換して分かりやすくするものだと。つまり、本能があってこその理性であり、最初から理性で音楽を作ると失敗すると。
 風野は昔音楽畑の人間で(といってもサークル活動に毛が生えた程度だったらしいですが)、体と心を壊して辞めたという経緯があるのですが、どうも辞める前にいたところでの音楽のあり方が未だに納得がいっていないようです。確かにそこそこレベルが高いものの、ちっとも音楽的な魅力を感じないと。そして理詰めの練習には美しさを感じつつも、個人個人の音楽に対する前提条件がバラバラのおかげでまとまっていない……と言っていました。
 私にそういう理屈は正直分からないのですが、いくつかそこのCDを聴かせてもらったところ、確かに、「お行儀が良い音楽」でした。まるでレタリングの練習課題を作成した学生のような音楽で、上手いけど、何が上手いかと問われるとよく分からない、そんな感じでした。まあ、その団体は伸び悩んでいるという話なので、ありがちな批評でしょう。
 風野曰く、「指導者のレベルは高いけど、演奏者との気持ちにズレがあった。演奏者間でもズレてたけど」らしく、せっかくの高いポテンシャルを活かしきれていないというのです。で、その原因に「演奏者は皆、理性で音楽を理解しようとしてた」と。つまり、指導者は本能レベルで理解できていた、という事でしょうか。


 「指揮者はなんであんなフリをしてると思う?」と問われましたが、私には音楽のことはサッパリ分かりません(特に演奏面は)。なので、指揮者がなんか気持ちよさそうに踊ってると、こっちも演奏者も楽しそうじゃないですか。だからあんなワケ分かんなく振ってるんじゃない?とか適当に答えたら、風野は黙ってしまいました。図星だったようです。
 風野は、「音楽ってのは、そういうものであるべき」だと言うのです。本能で表現してるからこそ皆に伝わり、理性で変換するからこそ洗練されるのだと。本能だけだと感動はしても、それを伝えることができません。理性だけだと伝えることはできますが、そもそもの芯が無いので面白くないのです……ですって。
 さっきから風野の言葉を変換してるだけの私は、さしずめ風野の理性でしょうか。……若干芸術家肌の風野は正直付き合いが面倒なので、本能と理性の関係というのはなんとなく理解できます。誰かが言語化しないと分からない、謎の言葉ってよくありますよね。


 で、なんでそんな話を唐突にしたのかと問えば、「なんとなく」だそうです。だから疲れるんだよ……。この話だって、単なる口先だけの若者と同じですし(本人も分かってるでしょうけど)。
 ですが、彼にとって音楽というものは今でも重要なものらしいので(一時期はトラウマだったそうです)、こと音楽に限ってはちゃんと聞いてあげることにしています。……今度からは適当な答えもしないので、また唐突に音楽の話をしてきなさいな。日記に書いてやるけどな、ヌフフ。


 今、桑原鞘子が噴水に飛び込みました。……あの曲、サントラに入るのかな?