タイムボカンと言えば山本優

 タイムボカンシリーズにおいて、脚本面で多大な貢献をしたとされる小山高生さんが言っておりました。
「脚本の数なら山本優さんの半分ぐらいだし、ヤッターマンでは全然書いてない」等と。
 山本優さんは、タツノコで言うなら「闘士ゴーディアン」であり、「J9シリーズ」や「亜空大作戦スラングル」のようなハードSFとロックの人なわけですが、実はこういうところでも重要な仕事をしていたわけですな。
 てなわけで、数えてみました。

  1. タイムボカン(1975〜1976)全61話。山本優脚本は21本。小山高生脚本は六話の1本の他、LPドラマ版の脚本と「ペラ助のぼやき節」の作詞を担当。なお、この頃小山高生タツノコを退社してフリーになったばかりの時期なので、ボカンの他の仕事の方が多いと思う。
  2. ヤッターマン(1977〜1979)全108話。山本優脚本は34本で、重要エピソードには「ヤッターペリカン初登場(14話)」「ヤッターアンコウ初登場(27話)」「ヤッターパンダ&コパンダ初登場(58話)」「ヤッターブル初登場(63話)」「挿入歌『おだてブタ』初披露(80話)」と、「最終話」もそう。ちなみに、小山高生脚本は0本。というのも、この頃は病気療養で丸二年ほど業界を離れていたそうな。ボカンでの復帰はゼンダマン九話。
  3. ゼンダマン(1979〜1980)全52話。小山高生脚本は9本で、特に最終話とその手前の前後編を担当している他、38話以降「文芸担当」を務めている。一方山本優脚本は21本で、第一話や「ゼンダゴリラ等新ゼンダメカ初登場(36話)」等が重要エピソード。なお、79年10月から山本優シリーズ構成の「闘士ゴーディアン」が放映開始だから、普段の脚本仕事の裏で話し合いをしてたと思われる。
  4. タイムパトロール隊オタスケマン(1980〜1981)全53話。小山高生は脚本を6本の他「文芸担当」と「オタスケマンかぞえ唄」の作詞と、LPドラマ「アターシャの結婚披露宴」の脚本も担当。ちなみに本編の担当は「第一話」「ゲキガスキー初登場(4話)」と、ラスト4話。一方山本優脚本は10本と、そんなに多くない。ゴーディアンで忙しかったんじゃなかろうか。なお、オタスケマンで一番書いていると思われるのが、「佐藤和男」の13本。この人は誰か、イマイチよく分からなかった。
  5. ヤットデタマン(1981〜1982)全52話。小山高生は脚本を8本(うち1本は共作)の他、六話まで「文芸担当」で七話以降「シリーズ構成」を担当(これは単に名前が変わっただけだと思われる)。脚本の中では一、二話とラスト二話の重要どころや、最終話の複線になる老人が登場する三十話等を担当。山本優脚本は10本で、この頃には「銀河旋風ブライガー」のシリーズ構成及び脚本の仕事があったと思う。脚本家をざっと見たところ、数人がそれぞれ10本弱担当してるといった感じにバラけてる。
  6. 逆転イッパツマン(1982〜1983)全58話。小山高生は「シリーズ構成」の他、26本担当(うち3本は共作)。前半では一、二話の他には本筋に絡む話を中心に、「シリーズ初!悪が勝つ(30話)」に始まるイッパツマンの交代劇や「助っ人 オタスケマン(41話)」のような重要エピソードを担当。後半は最終話は勿論、怒涛のストーリー展開はほとんど一人で書いていた。一方、山本優は七話で1本書いただけ。この頃は「銀河旋風ブライガー」の中盤から「銀河烈風バクシンガー」の脚本及び、「銀河疾風サスライガー」「亜空大作戦スラングル」「ななこSOS」のシリーズ構成立ち上げで忙殺されてる時期か。あと「魔境伝説アクロバンチ」もあった。仕事しすぎだろこの人。
  7. イタダキマン(1983)全20話。小山高生はシリーズ構成をしておらず、七話で脚本を1本書いただけ。山本優は0本。ぶっちゃけ書く事が無い。
  8. オマケ。手元にサントラ記載のデータがあった「闘士ゴーディアン」(1979〜1981)は全73話。こんなもんが一年以上続いたのが当時のアニメ業界か……と嘆くか、山本優の脚本力を高く評価するべきか迷うところ。玩具は結構出来が良かったみたいだけど……。んで、山本優は「シリーズ構成」の他、28本も担当している。後期頃にはブライガーもあるというのに、パワフルな人だなあ。ちなみに、後番組の「黄金戦士ゴールドライタン」には二人とも関っていない。

 というわけで、イタダキマンまでの担当本数を比べると、小山高生は51本+LPドラマ2本とその他仕事。山本優は97本。なるほど、大体半分ぐらいという小山さんの話は正しかったわけですな。
 こうやって見ると、山本優さんはフリーの脚本家の中でも、特に仕事が早かった人なんでしょうね。毎回同じ展開とはいえ、タイムボカンヤッターマンの脚本を三分の一もやってるところからも、仕事ぶりが分かります。というより、ヤッターマンで一番重要な役どころは山本優さんじゃないかというぐらい、重要エピソードをやってますよね。
 勿論単純に脚本数だけで物事は語れませんが、山本優さんもこの時代とタイムボカンシリーズを代表する人だったという事が分かった気がします。今までは「国際映画社でロックを書いてた人」とか思ってたんですけど、認識を改めねば。


 ちなみに、この頃で私が知っている小山さんの仕事には、「手塚治虫のドン・ドラキュラ」があります。1982年放映の、なんと全8話で打ち切り。しかも局によっては4話までしか放映されなかったとかなんとか。打ち切りの原因は、広告代理店が放映のための電波料金をテレビ局に払えなかったという、なんともお粗末なもの。そんな状況ではまともにお金が貰えるはずもなく、シリーズ構成として21話まで脚本をまとめたのに(うち19本が小山さん担当)、その他の仕事も含めて100万円近くの仕事が無駄になってしまったとかなんとか。ちなみにコレ、音楽が山本正之・新保正明の「ボカンコンビ」だったりします。当然サントラなんて出てません。
 しかし、世の中とは分からないもの。小山さんはこの「ドン・ドラキュラ」で知り合ったディレクターに、お詫びのような形で東映動画のプロデューサーを紹介されます。そしてやってきた仕事が、ボカンに続くギャグアニメの傑作と言われる「Dr.スランプ アラレちゃん」(時期的に、イタダキマン開始と重なります)。途中参加でありながらボカンで培った脚本力を評価され、そのまま「ドラゴンボール」に深く関わる事になります。
 私にとって小山さんは「ボカンの人」ですが、「アニメ版鳥山明の人」としても知られているのは有名な話。もしドラゴンボールが今の形でなかったとしたら、アニメ業界自体も変わっていたかもしれないと思うと、「ドン・ドラキュラ」が失敗して日の目を見なかったのも、何かしらの運命のようなものを感じてしまいます。