ファイアボール

 ツテを頼って今更ながらに入手、観賞している私。当然非常に面白いのですが、「可能な限り無意味に作っているように見える」のが私の印象でした。「無意味に作っている」というのは、「本当は意味があるんだけど、無意味に仕立ててある」という感じで、要は深読みができる作風なんですね。
 私は本来、物語に深読みは無粋だと思っているのですが、それでもたまに無性に深読みしたくなる時もありまして。ていうか最近の日記はほとんど報告ばっかりでまともな「日記」になってなかったので、たまにはこんなのもあって良いよね!という思いつきでもあります。
 とまあそんなわけで、可能な限り深読みしてみました。なお、大前提として、「表面的に現れているものは全て意味のあるものとして扱い」ますので。これは実は擬人化しただけで、実際は別の世界があるんだよとかそんな風な深読みはしませんし、ドロッセルお嬢様はフリューゲル女公爵ハイツレギスタ社製ジュノー14型で間違いはございません、という土台の元に深読みを致します。

  • 「イルカが見たいわ」

 ドロッセルお嬢様のこのような思いつきから物語は始まります。このイルカとは「約48000年前まで、地上で二番目に知能の高い生物だった(人類は三番目のようです)」とされており、これが銀河ヒッチハイクガイドからの引用である事は疑いようがございません(なお、件の物語によると一番目はハツカネズミでございます)。しかし、このイルカという生物はしばしば物語中に登場しており、なんらかのキーワードあるいは暗喩であると考える事もできるのではないでしょうか。
 例えばおしゃれユニット飛行ユニット「オブルチェフ」が登場した第三話のタイトルは「イルカが飛んだ日」でございますし、最終話のラストシーンで僅かに聴こえる声は正しくイルカの鳴き声でございましょう。ここから考えると、イルカとはドロッセルお嬢様と重なるイメージを持つ存在と言えるのではないでしょうか。
 そしてイルカとは、48000年前になんらかの形で絶滅した存在でもありますが、それとほぼ同時に物語中の暦であるメルクール歴が始まったとされています。このメルクール歴においては、人類は存在しているものの統治をロボットに任せてしまっており、更にその関係が悪化した結果、約20000年もの長きの渡り戦争状態に陥っているとされています。
 元ネタの銀河ヒッチハイクガイドに行ってみましょう。地上で二番目に知能の高い生物であるイルカはある時地球消滅の危機を感じ取り、三番目に知能の高い生物である人類にどうにかしてそれを伝えようとします。ところが、イルカは言語によるコミュニケーション手段を持たず、ボディランゲージ……有体に言えば「芸」しかできません。必死に地球消滅を伝えようと芸をするイルカに人類は喜んで餌を与え、何時しかイルカも諦めてしまいました。「人類の皆さん、お魚をありがとう」と……。
 ドロッセルお嬢様もまた、イルカと同じ存在なのでしょう。イルカの代わりに、人類よりも上の存在としてロボットが台頭し、いささか言語体系が異なります故和平もままならず、人類にしてみれば滑稽なやり取りをするばかりのロボット達……。ロボット達の間ではそれなりに深刻な会話が繰り返されているのかもしれませんが、私達は笑う事しかできないのです。しかし144年の時を経て成長したお嬢様は、最終話でテンペストの塔からイルカの鳴き声と共に出て行きました。きっと、人類に地球消滅の危機を教えに行ったのでしょう。あるいは、ファイアボール作戦なのかもしれません。

  • メルクール歴

 物語における暦でございます。人類とはいささか言語体系が異なります故、この「48000年」が我々人類の感覚における48000年と同様であるかは分かりません。
 メルクールとはローマ神話におけるメルクリウスの事であり、水星や水銀の象徴とされています。水星の公転周期は地球の役4分の1ですから、仮にこのまま48000年に当てはめるとすると、地球暦では約12000年ほどの時間になります。また、自転周期は地球の約58倍となっておりますが、もしかすると「舞踏会を二日に一度に減らす」というドロッセルお嬢様の言葉は、我々人類の感覚で言うところの「四ヶ月に一度」だったのかもしれません。更に自転と公転のズレから暦の構造を推測できるかもしれませんが、ここまで考えると私の頭脳に過負荷がかかってしまいますので、この暦にはあまり意味が無いような気がしないでもないと結論付けておきたいものです。「持って回るわね」
 一方水銀とは水の銀……流動的で生命力のある銀というラテン語が語源となっています。この「動く金属」がドロッセルお嬢様のようなロボットの暗喩を意味しているのは想像に難くありませんが、実はこの「動く金属」は油断ならない存在として、ギリシャ神話のヘルメスと関連付けられ、更にヘルメスがメルクリウスと同一視されるようになったとされております。水星もそもそもはヘルメスの星と言われております。動く金属にして、変幻自在で奇妙な性格のロボットが台頭するようになれば、暦がメルクール歴に改められたのも自然の流れと言えるでしょう。

  • 「あなたは口を挟まないで」

 ドロッセルお嬢様は口癖のようにゲデヒトニスにこう仰られます。しかしお嬢様はゲデヒトニスの名前を何度も間違えて呼びつつも、最終話でついに正しい名前で呼びました。これはお嬢様の成長でございましょう。これは深読みしなくても、物語のテーマと終わりが感じられて、大変象徴的で美しい構成であると言えます。
 他者とコミュニケーションを図るにおいて挨拶は大事でございますが、もう一つ大事なのが、他者を明確に他者と認識する事、即ち相手の名前を正しく呼ぶ事でございます。執事の名前も正しく呼べないお嬢様は、正に人類に危機を伝えられないイルカのようであり、それはそれで楽しい光景ではありますが、お嬢様にとっては歯痒く思えるやり取りだったのかもしれません。
 ここでもう一つ重要になるのが、ロボット猿のシャーデンフロイデでございます。ある時お嬢様によって名前を付けられ、ペットのような存在になりますが、これはゲデヒトニスをゲデヒトニスと認識する予行演習だったのかもしれません。また、そんな対話の予行演習をしつつも、その相手に「他人の不幸は蜜の味」等という名前を付けるお嬢様はなかなかに自虐的なジョークセンスの持ち主なのではないかと思わざるをえません。

  • 9:25

 第二話のサブタイトルでございます。また、プロスペロの第9章25節には「ファイアボール作戦、あるいは新たなる希望」が書かれています。
 目隠しをするゲデヒトニスといった第二話の内容を考えると、「言葉は始めに神様と共にあり、全てのものはこれによってできた」といった文章(第1賞2-3節)で始まるヨハネ福音書が元となっていると思われます。第9章25節は『あの方が罪人かどうかは知りませんが、ただ一つだけ分かっている事があります。私は盲目だったのに、今は見えるということです』といった内容で、生まれつき盲目であった人がイエスによって見えるようになり、そんな奇跡は神にしか起こせない、故にイエスは神を騙る罪人だと言われて返した言葉でございます。
 しかしヨハネ福音書と違い、ゲデヒトニスは盲目ではありません。それどころか、目隠しをするとお嬢様がどこにいるかすら認識できなくなります。これは会話において非常に深刻な問題でしょう。もしかすると、他者の名前を認識できないお嬢様に対して、その姿が滑稽であると示したかったのかもしれません。

  • プロスペロ

 ドロッセルお嬢様の亡きお父上、ヴィントシュトレ卿が残した書物型記憶装置でございます。何故ロボットが書物を読むのかと問われれば、人間を模倣するロボットにとっては人間のような振る舞いをする事にこそ意味があるとされているのです。先の第二話において、ロボットが食事についての会話をしていたのも、ひとえに人類を模倣しようとした結果なのかもしれません。
 プロスペロとは「PROgrammed Sequence of Primary Education for RObot」の意味であり、和訳すれば「ロボットのための初等教育プログラム系列」、強引に意訳すれば「説明書」とでも申しましょうか。およそ9割がテーブルマナー(同じ席に着く→和平交渉の意味でございます)について書かれており、またオブルチェフの使い方について分かりやすい図解が挿入されていた事も考えると、「ドロッセルお嬢様が成長するための説明書」がその本質ではないかと推測されます。
 これにも当然元となる名前が存在し、シェイクスピアの戯曲「テンペスト」における魔法使いの名前から取られていると思われます。魔法使いプロスペローは前ミラノ大公であり、その地位を剥奪した現大公である弟のアントーニオに復讐する為に魔法を使って追い詰めるのですが、やがて思い止まり和解するといった物語で、最後は観客に「私を赦すも赦さないもあなた達のお気持ち次第、どうか拍手によって自由にしてください」と語りかける構成になっています。
 テンペストの塔に住むドロッセルお嬢様は、愛らしい姿でゲデヒトニスを振り回す一方、人類に対しては支配者階級として君臨しています。最終話で成長し、他者を認識したお嬢様が塔を出て行く姿に対して、私達人類は何を以って応えれば良いのでしょうか。お嬢様もプロスペローのように「赦すも赦さないもあなた達次第」と仰るのでしょうか、それとも「チーッス!もぅドロってばチョーアゲアゲなんですけどー」等と挑発なさるのでしょうか。できる事ならば、拍手で迎えたく思います。


 ここまで書いてきましたが、やはり48000年の歴史をただの日記で書き記すにはいささか時間と気力が足りません。本日はここまでとさせていただきます。そのうち続きを書くかもしれませんし、書かないかもしれません。テンペストにおけるプロスペローの言葉を引用するならば、我々は夢と同じ物で作られており、我々の儚い命は眠りと共に終わるのです。


 追記:先程DVDを確認しましたところ、「二日に一度」ではなく「三日に一度」のようでした。