もしもドラゴンボールにブウ編が無かったら

 まず始めに、ブウ編を批判するつもりは一切ありません。あと、宇宙ショーの感想を書こうと思ったんだけど、なんかひらめいてしまったので。


 よく知られている話ですが、鳥山先生はドラゴンボールが長期化するにつれて、段々連載を止めたくなってきていました。でも編集部等「上層部の意向」で続けざるをえなくなり、「もうちょっとだけ続くんじゃ」の名言を生み出してしまいました。そして、その名言が使われたのはマジュニア編とサイヤ人編の間と、セル編とブウ編の間の二回です。でもマジュニア編で終わっていたら物語は実に綺麗にまとまっていますが、セル編で終わるとちょっと腑に落ちない部分が出てくるのです。ミスター・サタンの存在です。
 ブウ編での彼の活躍は今更語るまでもありません。最初のブウを改心させるだけでなく、最後のブウを倒すのは彼の力無くしては不可能でした。しかし、セル編までで考えると、ハッキリ言っていらないキャラだったりもするのです。ですからサタンは、ブウ編への繋ぎとして必要なキャラだったのではないでしょうか。セル編で終わらせようといろいろ話をまとめていたのに「もうちょっと描いて」と言われて、それで用意したのでは……という気がするのです。


 「セル編で終わる」「サタンはブウ編への繋ぎキャラ」この主な二点を解決する要因は、私は「国王軍」に集約されると思っています。意外すぎるというか、誰も覚えていないかもしれませんが、だからこそセル編を読み解く鍵になるんじゃないかなあと。
 人造人間セルが完全体になり、Z戦士達に宣戦を布告しました。それに対して出動したのが「国王の軍隊」です。勿論なす術もなく全滅させられて、国王は「ああするしか無かった」と謝罪放送をします。これは単純に考えれば「全人類の危機」であり、Z戦士がセルを倒す際のカタルシスになるのですが、よく考えるとちょっとおかしい描写だったりもするのです。
 まずドラゴンボールの世界において、既に世界は悪の手によって二度危機に襲われています。キングキャッスルを占拠したピッコロ大魔王と、その生まれ変わりであると天下一武道会で叫んだマジュニアです。実際にはサイヤ人やコルド大王等、人類はもっと多くの危機に見舞われていますが、ここで大事なのは「一般市民がそれを認識しているかどうか」です。
 そして、二度の危機は二度とも同じ人物、孫悟空によって救われています。これは読者は誰もが知るところですが、実は一般市民はそれを知りません。特に一度目は国王が直接それを視認しているにも関わらず、三年後の天下一武道会で「三年前にピッコロ大魔王から世界を救った孫悟空」等とは全く言及されていませんでした。それでマジュニアからも世界を救っているのだから、最早英雄として永遠に名前を刻まれてもおかしくはないのに、悟空にはあくまで「第二十三回天下一武道会優勝者」しか肩書きがありません。
 なのに、セル編では世界の危機が世界中に明言されて、人類の最高戦力(最後の希望)である国王軍でも歯が立たないと初めて描写されて(キングキャッスルにも天下一武道会にも現れなかったのに!)、「かつてピッコロ大魔王から世界を救った少年が現れる事を祈るしかない」とまで言われているのです。これはもう、悟空(達)を英雄として祭り上げろと言わんばかりの布陣ではないでしょうか。
 なんで英雄になる事が「セル編で終わる」に繋がるの?という疑問のある人には、ミスター・サタンがいないセル編を考えてみれば良いでしょう。他の展開は大体そのままで、16号の首は他のZ戦士が投げたという事にしておきます。

セルゲームにおいて、孫悟空は死んだ。しかしその息子、悟飯がセルを打ち倒した。二人と、共に戦った戦士達の名前は、地球の歴史に永遠に刻まれるだろう。そして悟空が住んでいた町は「ゴクウ・シティ」と名前を変えられ、伝えられる事になる。

 もしこんな展開になったら、私は「ドラゴンボール終わったな」と思うに違いありません。こんな展開は誰も見たくないでしょう。だって、悟空はあくまで「戦いが好きな人間」であって、「英雄」ではないからです。たとえ英雄だとしても、それは「天下一武道会優勝者」とか、「ジングル村をレッドリボン軍から救った」とか、その程度の英雄でしかありません。少年時代からそう描写されてきたキャラなのです。でもセル編では敢えてそうする事で、無理矢理にでもドラゴンボールを終わらせるつもりだったのではないでしょうか。
 このオチはさすがに穿ちすぎにしても、とにかくセル編は変なところが多いのです。Z戦士やその敵役に対して一般人が敵わないのは、ピッコロ大魔王が登場する以前の第二十二回天下一武道会におけるチャパ王やパンプットの時点で描写されているのに、今更国王軍なんて出されても困るのです。それで絶望感を煽っているのかもしれませんが、「死んだ人間が生き返る」というドラゴンボールの力によって、「大量の犠牲者」程度じゃ悲惨に思えなくなってしまっているのがこの世界なんですし(鳥山先生もそれを認識していたのでしょう、「トランクスならドラゴンボールで生き返れたんだ」という台詞に乾いた残酷さが現れています)……。


 ミスター・サタンが登場した理由はいろいろありますが、その一つが先に挙げた「ブウ編への繋ぎ」です。つまり、悟空を英雄にして終わらせるわけにはいかなくなったので、代わりに「人類の英雄」が必要になったわけです。国王軍でも歯が立たないのに人類のいち格闘家が敵うのか、という至極尤もな疑問には、サタンを「超自信家」「バカ」にする事で誤魔化しました。「かつて登場した達人武道家」に比べて非常に弱いのも(パンプットにすら負けそう……)、中途半端に強くてもどうせセルには勝てないので、分かりやすい弱さにした結果なのでしょう(鳥山先生が忘れてるという可能性もありますが)。
 また、そうする事によって、鳥山明のもう一つの持ち味である、「Dr.スランプ」で一世を風靡した「ギャグ要素」を引きずり出す事にも成功しました。辛い筈の修行風景にすら、扉絵では呑気に飯を食ってたりと和みやギャグを忘れない鳥山先生の事です、シリアスなストーリーにギャグを入れる事の大切さも当然知っているでしょう。その証拠にナメック星編終盤において、ギニュー特選隊という最後のギャグ要素が全滅してからはひたすらシリアス一辺倒だったのに対し、セル編はラストまで笑えるコマが混ざっているので、非常に小気味良い構成になっています。
 そしてサタン自身もギャグキャラでありながら、16号の頼みを聞くシーンでは男を見せる等、さり気ないところにキャラクター性が現れていて、「単なるうざいキャラ」じゃない事も示されています。空気を読まないギャグキャラはさすがにギャグになりませんからね。
 当然、「人類の英雄」であるサタンが死ぬわけがありません。それどころか、セルに吹き飛ばされても気絶すらしないというギャグは、サタンだけでなくセルのキャラクターすらも表しているでしょう。「セルゲーム」というルールに則った戦いを提案する程理性的なキャラですから、「殺す価値も無い奴」だっているんです。
 そしてブウ編では「人類の英雄」が既に存在しているので、悟空達は自由に動く事ができました。どれだけ事態が大きくなっても、悟空達が人類に対して責任を負う必要は無いのです。鳥山先生も、そういう構造にする事で非常に描くのが楽になったでしょうし、その大元であるサタン関連のエピソードがどれも秀逸なのがそれを象徴していると思います。そしてサタンは「人類代表」という立ち位置にもなっているので、最後の元気玉のシーンは正に「人類全員が力を合わせる」という、最高のカタルシスにも繋がっているのです。


 考えてみれば、「セルゲーム」自体が終わらせる布石だったとも思えますね。マジュニア編や実際のラストと同じく、「武道会で決着を付けて終わらせる」という展開に始まり、でも今更天下一武道会なんてやってたらトーナメントを描くのにダレてしまうのでオリジナルのゲームにして、どうせなら人類全体に宣戦布告する事で事態を大きくしてしまう事で「終わらせるしかなくなる」ように展開をまとめていたと考えられます。セルゲーム後半で武舞台を消してしまうのは、「どうせセル編じゃ終わらないんだし、自由に描こう」という神(鳥山先生)の意志だったのかもしれません。だって、マジュニア編では武舞台に最後までこだわっていましたから。
 ……で、ここまで書いて、あんまり国王軍は関係無いなあと気付いたのですが、まあ良いや。あの国王軍は「読者ではなく、作中人類の絶望感」のために必要な描写であり、そんなセルを倒したら英雄になるしかない(=物語的にオチが付くので、終わるしかない)という、鳥山先生渾身の「チェックメイト」だと思ったのですが(全世界放送はピッコロ大魔王の時点でやってるし)……。いや、あるいは「久しぶりにメカが描きたくなった」か……?