二次創作のライン

 上の文章を書いてるうちに思いついた話です。


 二次創作において、「どこまでなら改変しても許されるか」というラインは誰もが考えると思いますが、私は「宇宙世紀ガンダムGガンダム」の関係性がギリギリのラインじゃないかと思っています。ニュータイプといったファンタジーな要素を含みつつも、戦争とそこに生きる人々を描いていたガンダムシリーズだったのに、いきなり「ガンダム同士で殴り合い」を始めたGガンダムに、皆は開いた口が塞がらなかったでしょうが、今ではなんだかんだで認知されています。私はそこに、「ガンダムシリーズとしての最低限のライン」を守っていたからじゃないかと考えるのです。
 ガンダムで大事だったのはニュータイプ論だったのか、巨大ロボットのリアルさだったのか、あるいは偏りつつも人間臭い登場人物だったのかと問われて、今川泰宏監督は全く違う、しかし正しい答えを導き出しました。それは「地球勢力と宇宙勢力の対立」です。
 忘れがちですが、1stガンダムはリアルロボットものの元祖と言われてますが、実際の描写はかなりスーパーロボットものに近いものがありました。中盤からは毎回「ジオンの新型メカ」が出てきますし、Gファイターみたいなオモチャオモチャしたメカが毎回スポンサーの要請で活躍しますし、ニュータイプは革新的ではあっても結局「ちょっと変わった超能力」程度の描写でしかありませんでした(この辺は演出の未熟さ、時代的な限界もありそうですが)。しかし、確実にガンダムが新しかったのは、「敵と味方がお互いに人間で、お互いの正義があり、そしてお互いに一枚岩ではない」という、現代はおろか古代から続く永遠のテーマをロボットアニメで描いたところだったのです。
 Gガンダムも、実はこのテーマに沿って描かれています。元々十数メートルの人型ロボットなんて荒唐無稽なものなんですから、ロボットでプロレスを行わせて、あまつさえ生身の人間がロボットを破壊する事でそれを力一杯に茶化しつつ、しかし戦う理由を代理戦争にする事でガンダムとしての最低限のラインは守っていたのです。更に面白いのは、「ガンダムファイトのおかげで地球の環境が荒れた」といった台詞に現れていますが、今まで地球側が味方で特権階級だったのに対し、Gガンダムではそれが逆になっている辺りではないでしょうか。また、デビルガンダムによる環境汚染や地球再生といったテーマにラストのガンダム連合の集合等は、逆襲のシャアにおけるアクシズ落とし等を別のアプローチで表現していると言えるでしょう。地球の危機に対してジェガンギラ・ドーガが集まってきたら逆襲のシャアで、ネーデルガンダムやマーメイドガンダムが集まってきたらGガンダムなわけです。ニュータイプなんてよく分かんねえけど、「愛」でお互い「理解」できてんですから同じようなもんでしょう。
 最低限のテーマ性だけ維持して、他はバッサリと切り捨てる、この手法は確かに批判も多いでしょうが、Gガンダムは大ヒットしました。今川監督はそうやって「残す部分」と「切る部分」を理解しているから、賛否両論にはなっても駄作にはならないのです。二次創作をやるにおいても、「俺設定」で自分が楽しむのも大事ですが、「どこを残す」「どこを切る」かと考えると、面白さが一変するかもしれませんね。
 尤も、この話は「富野ガンダム以外を二次創作として考える」という前提での話ですし、そもそも私がGガンダム贔屓なのでこんな持ち上げ方をしていますが、WやXもガンダムとして正しい方向性だと思いますよ?どちらもガンダムの何かしらの要素を取り出して、新しい物語を作っていますから。
 ただしSEED、てめーはダメだ。あれはダメな方の意味での「ガンダムの二次創作」だ……。