コクリコ坂から

 「糸が伸びきっているという印象」。富野由悠季監督が『ガーゼィの翼』を観直した時、こう答えたそうです。『コクリコ坂から』を観た私の中に、この言葉が出てきました。


 宮崎吾朗監督の前回『ゲド戦記』がもういろいろと酷すぎる映画だったのに対し、今回は脚本が宮崎駿さんなので、その分はしっかりした内容になっています。が、そのおかげで吾朗監督が担当している部分(絵コンテ等)が逆に目立ってしまい、「やっぱりこいつ成長してねえじゃん」という感想を抱いてしまいました。
 絵コンテというのは、文字で作られたお話である脚本を、映像に落とし込む作業の一番最初の部分になります。脚本段階でも情景描写等が細かく書かれていれば、それは絵コンテに反映されますが、普通そんなに反映できるほど書くものではありませんし、そんなことするぐらいなら最初からコンテで描いた方が早いでしょう。つまり絵コンテは文字だけのお話の中から、「このシーンを盛り上げるにはどういうカットで見せれば良いだろう」「この会話のテンポはどの程度にすれば人物の心情を的確に表現できるだろう」というのを悩みながら描いていかなければなりません。普通の会話シーンでもカメラワークにこだわれば非日常を演出できますし、一見無意味なカットを伏線として用意したり何かの比喩に使ったりと、映像の可能性は無限大です。
 しかし私が観た印象では、とにかく機械的にぶつ切りで映像が作られていました。シーンごとの連続性もそうですし、止め絵とアクションによる緩急も無く、暗転の時間は毎回同じで、終始そうやってダラダラと続くものですから、一体どこが盛り上がりなのかさっぱりわかりませんでした。冒頭の朝起きて朝食の準備をする段階ですら平坦な作りになっていて、「この映画は退屈なものを見せるのか。それとも日常が退屈なだけで、非日常になったら面白くなるのか」という要らぬ疑問を抱いてしまいましたし。駿さんなら、朝食の部分だけで三倍は面白く作れます。
 また、脚本としては終戦から高度経済成長時代を経て安保闘争辺りの学生運動といった、そういうのを下敷きとした上での世代の移り変わりみたいなのが一つのテーマとしてあったと推測できるのですが、実際に映画を観ていてもあれが1960年代の物語だと実感できるにはちょっと時間がかかりました。これはつまり、脚本のテーマ性を理解できていない、あるいは理解できていても映像に全く落とし込めていないという事であり、もしそうだとすればコンテ描きとしてはヘタクソとしか言いようがありません。吾朗さんはこれで実質二作品目ということになりますが、もうちょっと下積みをさせてもらった方が良いんじゃないでしょうか。さすがに映画やアニメを観るだけでコンテ力を磨くのにはちょっと時間がかかりすぎますし。


 あとどっかで聞いた意見なんですが、「吾朗さんにはフェチズムが足りない」という話も、なるほどと思いました。これはサービスカットの類ではなく、自分が好きだからそういうシーンを入れるという欲望です。そして欲望のままに描いたシーンは、一般に受け入れられるかどうかは別として、ある程度のクオリティを持つものです。何しろ自分の欲望ですから、いい加減なシーンにはしたくありませんからね。駿さんの欲望は今更言うまでもありませんが、吾朗さんもそういうところから取っ掛かりを作ってアニメ全体も構成していけば、もうちょっと映像的に面白くなると思うんですが、吾朗さんのフェチはどこにあるのかも、あの映画からは感じられませんでした。ひょっとすると隠してるだけなのかもしれませんが、こと作家や芸術家というものは、自分の欲望を隠すとクオリティが落ちるものです。